なんてことない日記 見あげる先に
夜中に目が覚めて寝付けなくなったときのさいきんの方法。
左手の手のひらに、右手の中指の先端をのせて、触れるか触れないかぐらいの小さな圧で、
くるくる回す。
左手は「触れられている」、右指は「触れている」、だんだん右指が「触れられている」を感じる、左手が「触れている」になってくる、そこに意識を向ける。
「わたしのからだ」だと感じる。
日常のなかで忘れていること。
くるくるしながら、「あれも、これも、忘れていい」と解放していく。
5年前ぐらいから、記事をつくるとき、最初から最後まで自分で決めることがほとんどになった。
心は20代のままだったりするから、「本当にこれでいいの? 私が決めてしまっていいの?」という不安に足を取られることがある。
フリーランスといっても、併走している人がいたから、頼っていたんだなと思う。
この間、自分が避けていたその人が監修という立場で入り、オンライン取材した。
いま、音声起こしをしてる。
「今日は僕は黙っていますから」といいつつ、ときどき会話に入ってくるなか、やはりその人が発するフレーズは「うまいな」と思う。
自分もやってやる、ひらめいてやる、という気持ちが沸いてくる。
見あげる先に誰かがいるということはもしかしたら必須のことなのかもしれない。
そういう人が見つかるといいな。
すでにたくさんいるのかも。
一人でやるというのは自由なことだ。でも一人でやっているわけでなく、
頼られているし、頼ることもできるということを思い出したい。
積ん読の本を読み返す時間を作って、おいしい言葉を摂取して、あんなふうに世界を見てみたいと思える人を見つけたい。
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